ishiij's blog

a day of ishii masayuki

2006-08-21










●渋谷



藤原新也さんの「渋谷」を再読。やはり名著だ。この本を読んで渋谷の風景の見方が一変した。写真を撮りたくなった。フィルムカメラを売却するのは中止。





渋谷





渋谷











http://dc.watch.impress.co.jp/cda/other/2006/07/19/4230.html






●メモ



家族も企業も崩壊しているのだから、自己、自我を守る術がない。ゆえに人は、身体価値を向上させることで、市場価値を維持してサバイバルしようとする。それにともない老醜に直面することに対する恐怖が高まり、美容整形へのニーズが高まっていく。その先にまっているのは何だろう。日本の場合、ナチスがやったようなアーリア人というルックスに基づいたナショナリズムは形成されない。明治以来、日本人は自分たちの容貌に自信をもっていないからだ。脱出口としては、人体のサイボーグ化だろう、ということまでは読めた。その先にあるのは、デザイナーズベビーなどの、胎児期での身体のふるいわけへの欲望である。これも読めている。身体障害者を生まないためにあらゆることが自動化されており、妊婦はその選択をないでよいという選択をしている。その先は何だろう。オカルトしかない。輪廻転生によって、きれいな魂の持ち主であるという、他者からの承認が、アイデンティティの核になる。だからこそ、占いなどの大衆的なビジネスに若者は群がるのだ。このカルト的な空気が、ナショナリズムに転化するはどういう状況だろうか。死をめぐる意味づけに国家が介入するとき、になるだろう。国家が、死の司祭になるとき、人々は跪く。靖国神社をめぐる言説を支える者たちは、右翼ではない。魂の救済を求める、小さき人々の衆生である。オウムにせよ、細木数子にせよ、その衆生の欲望の代弁者にすぎない。衆生に消費される役割を引き受けた者は、一時期的に強者になる。この代弁者のリレー構造が、21世紀の利権構造として膨張する可能性を秘めているのだ。






 付記



 着せ替え人形としての身体、という意味づけをする者たちを、身体の司祭、と呼びうる。この身体の司祭は、これまで医師だったわけだが、現代では美容整形外科医がその司祭として、大きな影響力を発揮するようになっている。その影響力は、病院勤務の医師たちのそれを凌駕する。衆生は、占いと美容整形情報が満載の女性雑誌、ネット情報を消費しながら、身体の浄化とあわせて、魂の救済を渇望する。



 しかしみたされることはない。魂の浄化は、永遠に続く輪廻転生のワンシーンだからである。



 その先にあるのは何か。



 思考停止か、発狂か、悟りか、苦しみにみちた日常への回帰か、現実との格闘のなかに生きる実感を獲得するか。






付記



 ロハスという運動もまた身体の浄化運動のひとつであり、そこに気づいているソトコト編集部はエライ。魂の浄化をもとめる者はカオスを嫌悪する。自らの鏡を見ることに飽いているのだ。産業廃棄物の現実ではなく、ファッショナブルな環境情報による、魂の浄化の自動化こそが、人々の癒しにつながる。そのように考えると、泥だらけの環境運動からの世代交代が失敗すると、環境問題への関心はカルト的になりうる。環境問題につよい関心をもつ者が、優生思想に共振するのはむべなるかな。



 ここまでくると日本という風土のなかで優生思想と輪廻転生が、どのようにキメラ化していくかが、問題の結節点になるのかもしれぬ。



 その結節点に飛び込む。



 付記



 現代において、その結節点になっているのが、安倍晋三である。



 柔らかな物腰、柔和な語り口、整ったルックス。このような政治家が、不用意に戦没者を悼み、輪廻転生を政治的に粉飾された言葉で語るとき、衆生は共振するのだ。支持者は、現代日本でもっとも孤立した女性たち。その衆生は、殺されることを厭わない。なぜなら、死にかけている者には、死は幻想化されたイメージにしか感じられないからだ。



 生と死の共振をする場としての家族、会社(仕事場)が消失したとき、人々は国家という不滅と思われる虚構に生を仮託せざるを得ない。






●メモ 顔とは社会的属性の総体である



顔とは、肉体、ルックス、肩書き、職業などの社会的属性の総体である。努力すれば報われるという、機会平等主義が崩壊したのち、生まれながらの属性に人々は共振するようになった。



宮崎駿の子供であるという理由だけで、映画監督が任せられ、その映画がヒットを飛ばすことは、階級社会の固定化を示している。



大衆エンターテインメントを製造する者たちの特権階級化を、大手メディアが批判しないのは、そのメディアの中枢にいるものたちもまた、特権階級化しており、その階層構造によって生きることができる、という現実を許容しているからだろう。



ゆえに、この中身が問われないバーチャル経済にあっては、顔(生まれながらの社会的属性)の価値は高騰する。マイナスの価値を背負ったものは、マイナスの価値を上げることで、社会的アイデンティティを獲得し、精神の安定を得る。明日のことは分からない、ことへの恐怖と不安は、衆生を幸福にしないのだ。衆生は、泣きたがっている。感動したがっている。それゆえにエンターテインメントを求める。そのエンターテインメントにも、階級という「保証」が必要なのだ。







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