小飼弾さんのブログから。
http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/50399855.html
その彼に次に取り上げてほしいのは、なんといってもblogosphereである。blogosphereにおいては、自分の外見と自分の印象を容易に分離することが出来る。私はそうしていないが、過半のblogが実名を出さずになされていることを見てもわかるように、日本においては私は少数派である。こういう世界における「外観」とはなんなのだろうか?もしかしてこれは自分の見た目に対して「諦めて受け入れる」「諦めずに整形なので抵抗する」に代わる第三の方法なのではないだろうか?取材する価値は充分にあると思われるがいかがだろう?
はい、ありますね。
実社会での外見と、ネット社会での外見のギャップも議論のときが来ている。
考えてみました↓
メモ---ネット上の実名と匿名表現について
・匿名表現の歴史
・日本ではなぜ匿名表現を大衆は選択するのか? 2チャンネルとブログ
・権力の匿名性
もっとも匿名性の高い機構のひとつが官僚機構、ジャーナリズムなどの合法組織。
および、ヤクザ、テロリストなどの非合法組織。
両者ともに匿名的存在であることを尊ぶ風土がある。
両者の親和性の是非。
権力機構としてのメカニズムとしての機能を高めるとき、匿名的存在である必要が出てくる。
加盟者の代替可能性と、情報中核からの分離可能性を確保しておくこと。
人事異動などで抵抗できない末端の構成員の位置づけ。
匿名者になることで入手できる権力、喪失する権力。
実名者になることで入手できる権力、喪失する権力。
メリット・デメリット
快楽と苦痛のバランスシート。
人間は匿名と実名のどちらを魅力的な者として解釈するのか。
実名者であることの恐怖
プライバシーを侵害される「恐れ」を予見して、直接の被害がない時点で恐れるという対人恐怖的精神風土の是非
匿名者であることの恐怖
肥大化する自意識のコントロールを喪失する可能性
最終的に実名を吐露する(あるいは実名をたどることを許す情報を公開してしまう)という行動をとるのはなぜか。
仮説メモ
日本では外見の均一性が尊ばれる。それ故に、匿名性という均一性を歓迎するのか?
個性という権力に寄り添うふりをしているだけで、現実は、均一的な外見と思想を歓迎する風土