書評空間を更新しました。
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<追記・雑記>
・たいせつなことを距離感だ。現代社会では、陳腐なつくりのテレビ番組につきあうことは避けられない。才能あるクリエイターも食べるために、そのような陳腐なコンテンツビジネスで働くことはよくある。この陳腐の中にある宝石を見つける仕事は目利きのプロがやらないといけない。杉浦はそのプロのひとり。杉浦がよいというケータイ小説は読んでみる価値があるのだろう、と思う。私はケータイ小説に興味はないし、読むために時間を消費したくはないが、この距離感はもっておきたい。
・ケータイ小説という子供向けの商品と、文庫、新書という廉価な商品群が書店を埋め尽くしている。この商品群が売れなくなったとき、書店経営に何が起きるのかも見ておく必要があるだろう。浜松に移住して10ヶ月。近所の書店が2つ閉店した。地方の書店が、生き残るためにはTSUTAYAとジャスコに入るしかない、という感じである。
・面白い小説を消費する時間よりも、面白いことを企てて行動する時間のほうが充実している。読む価値のある小説をさがし、時間を使うことにためらいがある。しかし、書籍は非常に安い娯楽だ。コストパフォーマンスがよい。ようは時間の使い方だ。
・小説経済が危機に瀕しているのは、時間にたいするコスト意識が社会全体に広がったせいかもしれない。これからも時間へのコスト意識の乏しい若者にターゲットを絞ったコンテンツビジネスは儲かるのだろうか? 小説を滅ぼすのは、忙しさ、であると思う。いや、そうではないのかもしれない。人は常に現実逃避とか、空想の世界を楽しむためのコンテンツを探している。社会が不安定になるほど、わかりきった舞台装置の小説世界のニーズが増えるという面もあるような気がする。私はいまカタストロフをテーマにしたノストラダムス的な世界観に興味はない(10代のときにはまった)。なぜなら、現実社会でさまざまなことがらが崩壊しているようにみえるから。四川大地震のニュースを見て、東京大地震を想像し、被害者総数をシミュレーションすることができる。そのための情報もすぐに入手可能。その背景を想像することで一定のコンテンツ消費を自分でできるからだ。こうしてブログを書いていると、キーボードをたたいている時間の消費のパターンが、ケータイ小説作家のそれとほぼ同じであることに気づいた。私もケータイ小説作家となんら変わるところはない。好きなように書いて自己表現することが快感なのだ。匿名性でリスク回避をするか、実名のなかでなんらかの葛藤をもって書くかの違いがあるだけだ。
若い女性たちによってつくられるケータイ小説は、中高年の生活苦をテーマにしたケータイ社会批評にとって代わられるのかもしれない。