海外在住の旧友が死んだらしい、という情報が来た。その友人のSNSを見たところ、英文で、「彼は死んでしまった。遺品を日本の家族に送りたいけどどうしたらよいのか、わからない」と、書き込みがあった。
その友人にメール送信をしたが、返事がなかった。
彼と私の共通の友人知人に、「彼が死んだらしい、何か情報を持っていないか」と確認。みんな情報をもっていなかった。
ただ、私たちが共通して感じたことがある。
「彼は好きなように生きて、海外で死んだ。予想はしていた」。
30年くらい前、まだインターネットがなかった頃。
私と彼は出会った。いつどこで出会ったのか、はっきりと思い出せない。出会ったとき、彼は経験豊富なライターだった。私はまだライター業をはじめたばかりだった。
彼のライフワークは名古屋の外国人労働者問題。取材の成果を、東京の商業雑誌に掲載してもらい、原稿料を稼いでいた。駆け出しのライターだった私は、彼を尊敬して、仕事のスタイルをマネしていた。
酒を飲まない、友達も少ない男だった。
興味のあるテーマにのめり込んで記事を書いていた。商業誌で書ききれなかった事実を、自費出版で小冊子にまとめて、それを手渡しで販売していた。
名古屋のフィリピン人女性が強制労働されておりそれを支援する労働組合の動きなどが詳細にレポートされていた。
ある程度のお金が貯まると、海外に出かけて取材をしていた。すべて自費だったと思う。そのうち、アジアのある国で邦字新聞の記者になって、海外に定住するようになった。年に数回だけ帰国する。SNSで、元気ですか、と、たまにやりとりする仲だった。
その彼が消息を絶ったわけだ。
生死を確かめるために、何かをしなければならない、ほどの深い友情で結ばれた仲ではない。
一時期、大きな影響を私にあたえたライターの先輩であり仲間だった。
1年ほど、名古屋市内のアパートの一室を借りて、彼と編集プロダクションのまねごとをしたことがある。広告記事、社会問題についての特集記事を一緒につくった。彼はほとんど事務所にはこなかったけれども、仕事仲間ができて楽しい時間を過ごせた。
その後、彼はアジアでの取材放浪生活の道を選択した。
私は、名古屋からニューヨークに行き、ユニークフェイス問題取材をした。大阪で編集記者を経験した後に上京して、「顔面漂流記」で単行本デビュー。
彼はペンネームで一冊書籍を書いていた。私は実名で数冊の書籍を書いた。彼と同じ水準に立った、と感じた。
30代になって、新宿で出会ったことがある。お茶をしながら、お互いにこれから書きたいことを語った記憶がある。
私の記憶にのこっている彼の姿は30代のままである。
亡くなっていたとしたら、享年55歳か56歳だろうか。
生死を確かめたわけではないが、彼はいなくなった、と思う。
しかし、彼が、よれよれのジーパンと汚れたシャツでひょっこり現れて「石井君、ひさしぶり。ちょっとフィリピンから帰ってきたところなんだけどね」と話しかけてきても、私は驚かない。
飄々と生きていた。死んでいたとしたら、さらりと死んだと思う。
さようなら、とは書けない。死を確かめたわけではないから。
よくわからないけれども旧友が死んだ、と感じる。
いま書けることは、それだけだ。