雑文を書いてみた。
あとで消すかもしれない。
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『顔面バカ一代』復刻版(論創社)のために、
講談社版『顔面バカ一代』、かもがわ出版『顔面漂流記』を読み返していた。
過去の自分の文章を読むことは、恥ずかしい、そして苦痛だった。
いまならこんな文章は書かない、文章が下手くそだ、問題意識が浅い、と、自分の過去に、現在の自分が突っ込みをいれてしまうからだ。
それでも、いくつか気づきがあったので、memoで残しておきたい。
『顔面漂流記』は青春の記録だった。
幼少期から30歳まで、顔のアザについてずっと葛藤してきた、その自問自答の記録だ。
ひとりの少年が、文章を書く技術を身につけて、フリーランスライターになるまでの記録でもある。
『顔面バカ一代』は、NPO法人ユニークフェイスをつくって、当事者活動のなかで感じた葛藤の記録だ。社会運動家、当事者活動家、としての文章だ。NPOを起業したばかりで右往左往している。『顔面漂流記』に、その部分を加筆して文庫になった。これでは、NPO法人経営は失敗するだろうな、という筆致だ。後に、NPO法人経営を放り出して解散することになる。
論創社「復刻版」では、就職、結婚、地方移住、子育てを経て、「普通の人間」としての生活を送るまでの人生の記録を書き加えた。
「当事者」ではなく、普通の人間としての営みを書いたつもりだ。
当事者活動から離れて、普通の暮らしを経験したので、
「すこし長い後書き」では、書かれている内容ががらりと変わった、と思う。
それは私の生活が激変したから。
「ユニークフェイス当事者」としての発言をたくさんしてきた。
しかし、近年、「当事者」という言葉の価値は減った、と感じる。
「当事者は」という、大きな言葉ではなくて「私は」という一人称で書く。
それが大事だ。
「当事者は」という表現は、「女は」「男は」「日本人は」と同じくらい雑な言葉になっているから。
日本語には、主語をなくす文体がある。主語がなくても意味が通じてしまう。
それが日本語構造の特徴だ。
主語をなくす文章を書ける人、
それは「普通の人だから」と思っている。
だから、私は、「私」を主語として選んで書いてきた。
『顔面漂流記』からそれは変わっていない。