息子が、折り紙に夢中になってまして、折り紙作家の本を買い与えたところ、それなりのものをつくりこむことに成功してます。
たいしたもんだ。
子どもの成長万歳!
息子が、折り紙に夢中になってまして、折り紙作家の本を買い与えたところ、それなりのものをつくりこむことに成功してます。
たいしたもんだ。
子どもの成長万歳!
『カニは横に歩く』(角岡伸彦)をやっと読了。
著者は青い芝の会の介護ボランティアだった。その経験から、記述されている事実は細かく、人間観察もしっかりしている。至近距離で観察し、体を動かしてきた人間だから書けたノンフィクション作品。
健常者を敵とみなす社会運動は、大きく発展することなく終息した流れをたどることができた。そして、時代はかわり、新しい動きが芽生えていく。時代に並走した角岡さんという書き手を得たのは、さすが、青い芝の会だな、と感じた。突破な障害者たちは、多くの人を集めていく力があったのだろう。
ひとつの会議に10時間かけている。これでは、ほかの障害者も、善意ある介護者は逃げ出す。
それにしも、まともな教育を受けていない人たちが、激しく行動したという事実は重いし貴重。いまの時代からみると、それは明らかに無茶だし、無駄だし、だめなこともあったろうが、それでも、ほかに生きる選択肢がなかったのだから、それでいいのだろう。そういう無謀なことはほかのマイノリティーの歴史にもあった。ほとんど記録されていないのだろう。記録者がおおい、という運動はそれだけで貴重だ。
青い芝には詩人がいて、その言葉の力があった。そして全共闘運動の時代にあった反権力闘争という熱気もあった。
障害者の自立運動は、別の形で、継承されて発展している。
日本の障害者運動のビッグバンの発火点は、青い芝の会、という伝説がある。
わたしもその伝説を信じていたが、本書でその舞台裏を知ることができる。
神戸の大震災から、青い芝の会も大きく変わっていく。仲間の死。その子どもの人生まで、書き込んでいく。
当時、障害者が自立すること、結婚すること、子どもを産むこと、育児をすること、すべて冒険だった。無謀なことだった。そのすべてを実現するために、多くのボランティアが巻き込まれていった。
生きるってすごいことなんやな。
書店で、あとがきを立ち読みして、すぐにレジに向かった。
著者の上原善広は、1973年うまれのノンフィクション作家。あとがきで、20歳で学生結婚をして、卒業した年に娘が産まれた、そのあとに単身アメリカに飛んで、いろいろあって、離婚。子どもは4人いるという。さらに自殺未遂経験がある。兄妹のひとりは性犯罪で服役中。被差別部落出身(上原は、部落のことを「路地」と呼ぶ)。そういう作家が、親父の人生を取材して書いた、というのだ。
ここまで読んで、面白い作品であることは確実だ、と分かった。
親父である、上原龍造は、戦後の貧困のなか、とば(屠場)で修行し、食肉ビジネスで成功した人物。ヤクザ、共産党、部落解放同盟という組織、運動体そして利権が渦巻く、路地のなかで、ひとりの自営業者としてのし上がっていく。いっぽんどっこ。一匹狼、として成功することは難しい環境で、のし上がるためには、暴力、修行した職人としての腕、金儲けのための才覚、そしてアクの強い業界の人間との人間関係が必要になる。そのすべてを自分の能力だけを頼りに、生き抜いている。戦後の高度成長の波に乗った、というのは簡単だが、とにかくエネルギッシュである。この人は成功するだろう。しかし、家庭内暴力がすさまじい。ありあまるエネルギーが、憤怒に変わると、妻を殴り、間男を半殺しにする。躊躇はない。
書籍の帯には「金さえあれば、差別なんか、されへんのや!」。
この啖呵のとおり、龍造は差別される人間にはならず生き抜くことに成功した。
しかし、である。その壮絶な生き方と、まともな家庭をつくることは両立できなかった。4人の子どもを産み育てた妻との離婚、愛人との別れ、信頼する職人のシャブ中毒と自殺。この職人が、あんたみたいにオレは強ないんや、という叫びは、身にしみた。貧困のなかで、のし上がるということはきれい事ではないのだ。
最終章では、福島県産の牛の肉の取引が描かれる。風評被害で暴落した福島産の肉を、龍造は買う。ほかの業者は目を伏せて、競りに参加しない。買ってみよか、という勘はあたる。おおきな利益を生み出したとき、まだまだオレはやれる、という気迫が満ちていたという。
自営業者がいかにして生き残るか、という経済ノンフィクションとして読んでも面白いかもしれない。お行儀のよいサクセスストーリーではない、差別と貧困から立ち上がる成り上がり人物評伝。
読了後、焼き肉が食べたくなる。これでたった1400円。おいしいノンフィクションである。