作家の岡映里さんのTweetが印象に残った。
私は100年前に生存していた血縁者のことを誰も知らない。名前も顔もわからない。
— 岡 映里 (@okaimhome) 2018年4月17日
100年後に私はおんなじ目に合うので、そう考えると今苦しんでることもキレーになくなってくれるから、別になにやって生きてても全然いいなーって思います。
たしかにそのとおりだと思った。
100年前に、ユニークフェイスが人権問題になる、ということを予想していた人間は世界中にひとりもいなかった。
いまはかなり増えてます。長い人類の歴史では黎明期といえる。
カミングアウトしている人がいたのかいなかったのか?
記録が国会図書館に残っていない限り、なし、とされる。
でも、情報環境がすくなかった時代でも、語る人はいて、それに耳を傾けていた人はいた、と確信してる。
私個人が何をやっても、100年後は忘れられる。
書籍は残るかもしれないが、よほどのことがないかぎり、100年前の書籍は一部の歴史的名著を除いて消えていくので、100年後には消えていく。
経営や資本主義について書籍を読んで驚いたのは、
ひとりの起業家が心血を注いでつくりあげた組織や功績は、
廃業すると跡形もなく消えること。
20代、コピーライターとして企業の宣伝文章を書いていたとき、
有効期限の短い商品としての文章を書いていたときにも感じたことだ。
人間の行動や心の動きは、どんなに偉大でも消えていく。
そういうわけで,記録することを仕事、または趣味とする人間を、
人間の社会は必要とした、と思う。
人間は忘れられることを恐れる動物なので。
私は高校と大学で工学(エンジニアリング)を勉強したので、
方程式や論文が残っており、
それを継承発展させていく人間たちの営みをみて育った。影響を受けた。
だから大事なことは記録するべし、という感性を身につけた、と思う。
一部の例外を除いて、すべては消えていく。
土塊からうまれた人間は土に帰るべし、ということだ。
そういうのが嫌なので、私は書く。
まだ苦海浄土の筆写を続けている。
これほど力のある文章は滅多にない。