石井政之の作業場

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『大衆の狂気』 (ダグラス・マレー著) 読書メモ

『大衆の狂気』ダグラス・マレー著。分厚い書籍だ。500頁もある。なぜ購入したのか。

キャンセルカルチャーの動きを見ていて、フェミニズム運動がなぜ暴走しているのか。それを理解するヒントになる、と思ったからだ。

5月だったか。京都市内の大型書店で、本書を立ち読みして、面白い記述をみつけた。しかし、分厚いし、ハードカバーとしては高額なので買うのはやめた。

半年くらいしたら図書館で読めば良い、と思った。

数週間後、同じ書店に行ったら、まだ棚にあった。その日は予算1万円で書籍を買う、と決めていた。東京での用事から京都にもどったばかりで、気分がのっていたのだろう。10分ほど立ち読みして、この内容ならば、半年くらいは楽しめる、と感じたので購入した。楽しめるとは、SNSで紹介する価値がある、オンライン読書会をするだけのクオリティがある、フェミニズム運動を批判的に検証する数少ない書籍なので類書が少ない、など、楽しめる要素が複数ある、という意味だ。要するに、すばらしいノンフィクション作品だ、と分かった。このような書籍は、どんどん紹介すべきだ。たとえ書籍を購入しなくても、概要が分かるブログ記事は必要だ。私も、そのようなブログ記事のおかげで「読んでいないけど、何が書いてあるのか知ったかぶり」できている。

書評がでていた。

www.sankei.com

手堅い書評だ。可もなく不可もなく、という印象。

 

私は、この3年ほど、共同親権と実子誘拐(拉致・連れ去り)に興味を持っている。その過程で、フェミニズム運動の人たちが、共同親権に大反対している事実、実子誘拐(拉致)について議論をしない、という現実を観察してきた。なぜ、そのような矛盾した態度をとるのか分からない。マスメディアもその矛盾を検証報道しない。なぜ??、という疑問は消えなかった。

本書によって、その疑問のいくつかが解消できた。

 

とりあえず、「イントロダクション」、第二章「女性」、「間奏 マルクス主義的な基盤」、そして「結論」を読んだ。

 

社会的公正をもとめる社会運動が、新興宗教のようになっている。その運動には、マルクス主義的な基盤がある。

とマレーは書く。

私はこの記述に既視感をもった。共同親権に反対している人たちにも、まったく同じ動きを感じていたからだ。

女性の権利を求める社会運動としてはじまったフェミニズムが、キャンセルカルチャーに行き着いてしまったのはなぜなのか。

アメリカのフェミニスト学者の大御所であるジュディス・バトラーが、悪文を書くことで本音を隠しながら、何を目指して言論活動をしたのか。

アメリカのフェミニストが、女性の性暴力被害者の告発には耳をかたむけるのに、男性の性暴力被害者の告発は叩き潰す、とか。驚くべき事実がしっかり書かれている。それにバトラーも加担していた。

ハッシュタグ運動として広がった#MeToo 運動のダークサイドまで批判的に検証されていた。

 

日本国内の共同親権に関する議論を3年ほど観察して、フェミニズムのイデオロギーに疑問を感じるようになった。しかし、その疑問の言語化は容易ではない。

上野千鶴子をはじめとする権威ある学者、著述家たちが、その正当性を訴える書籍を累々と積み上げているからだ。マスメディアの記者もその主張にシンパシーを感じている。

先進国のほとんどが共同親権だ、という事実は、共同親権になるとDVの被害者女性は暴力夫から永遠に逃げることができない、という憤怒の書き込みにかき消されていく。

こういう激しいやりとりをネットで観察し、何者かの抗議によってマスメディアで発表された共同親権に関する良質な記事が消えていく、改変を余儀なくされる、という現実を観察していると、「いったい何が起きているのか」と、さらに好奇心がかきたてられる。

 

『大衆の狂気』は大著なので、そのすべてを論じ、紹介することはできないが、次の文章はこのblogで引用したい。

 

フェミニズム作家のパーリアの言葉を、マレーは以下に示すように引用している。

 

「フェミニズムのイデオロギーは、人間生活における母性の役割という問題に誠実に取り組んだことがない。抑圧者の男性とその犠牲者の女性というフェミニズムの歴史観が、事実を大きく歪めている」p435 (私たちが避けている重要な議論)

 

抑圧者の男性とその犠牲者の女性というフェミニズムの歴史観!!

 

この歴史観にしたがって、事実を歪めて認識する人たちが増えている。それによって、社会は混乱し、対立が激化する。それをマレーは危惧している。

 

私も同感だ。

 

このままだと、行き着く先は、マジョリティ、男性の側が、「抑圧者の女性と、その犠牲者の男性」というイデオロギーをもつようになり、それを武器にして、フェミニズム運動に対する非寛容に陥っていくだろう。その予兆は既にある。

そのような対立からは何もうまれはしない。

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追記

 

「さまざまな『犠牲者グループ』が実は抑圧などされておらず、優位な立場にいる場合さえある」p433。

この記述も良かった。

虚偽DVで実子誘拐(拉致)をした人が、実は不倫しており、不倫相手と同棲をしている。同棲相手の所得と、元夫から養育費を得て、豊かな生活をしている、という現実もある。犠牲者だ、と主張すると、その言葉の真実性が検証されない。

 

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そんなわけで、『大衆の狂気』は、ここまで書いてよいの?

とドキドキしながら頁をめくる読書体験になった。

 

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とりあえず、今日はここまで。2022/06/17。

読み進めていくなかで加筆していきます。