昨日、Twitterのスペースで、家族についての議論に参加した。
家族のカタチとは?脱・家制度!家族法制パブコメ要旨あれこれ
— まどか (@_tsumugi_love) 2023年1月24日
共同親権のパブリックコメントにかかわるオンラインイベントである。
その議論を通じて、
子どもが、日本の家族制度の「難民」にならないように、共同親権が必要だ、という視点の気づきがあった。
離婚した後に、子どもをどうするか。日本では、単独親権なので、親権をもった片方の親が子どもの処遇を自由に決めることが出来る。別居親は、法的には他人になり、なんの権利行使も出来ない。
世界中が共同親権。しかし、日本では時代遅れの、単独親権制度のままである。
では、共同親権になれば、問題が解決するのか。
そう簡単ではないだろう。
長い間、日本社会は家制度である。表面的には家制度は否定されているが、家制度の残渣が法制度、生活習慣、倫理などに浸透している。
離婚後の単独親権もその残渣のひとつだろう。
共同親権が法制化されたあとに、子どもの養育のために、国民のひとりひとりが意識改革と行動をしなければ、共同親権・共同養育は実体をともなわない。
交通ルールが整備されても、運転する人間の意識改革と行動が変わらないと、交通事故と飲酒運転が減らないのと同じだ。
諸外国では、日本のような家制度と戸籍制度はない。
「個人」を起点に、法制度と、生活習慣、倫理が整備されている。すくなくとも先進諸国はそうなっている。
日本では、家制度にとってかわる、新しい家族を構想することが必要になるだろう。
そのためには、どうしたらよいのか。
未来予測は当たらないものだが・・・新しい家族を実体化させるためには、「義侠の人であらねばならない」という気がする。
私が考えている「新しい家族」のイメージは、華僑のようなものだ。
「一族郎党」が、渾然一体となって、互いに助け合う。
一族郎党の意味をネットで調べると、こう書いてある。
血のつながりのある者と、その従者や家来。また、家族や関係者の全員、有力者とその周りにいる利益を同じくする者をもいう。
つまり、友人、知人が含まれる。
日本では核家族が、普通の家族の形とみなされている。
しかし、この核家族は実際にやってみると分かるけれど無理がある。持続可能とは思えない。
夫と妻の二人だけで、育児と仕事の両立をして、幸福に暮らす。
無理ゲーなのである。
ほとんどの会社は数年で倒産する。ほとんどの会社は、終身雇用ではない。会社は人間を解雇する。通勤時間は長い。残業は避けられない。子どもは100%熱を出し、病気になる。夫婦関係は常に流動的だ。片方、または両方がが不倫するかもしれない。実家との関係がめちゃくちゃかもしれない。老親が認知症になったがその実家は遠方だ。夫婦共働きになれば、子どもに関わる時間が減る。子どもがぐれて不登校になるかもしれない。大学の学費は高騰する。・・・数えだしたらきりが無い。生活にはリスクがつきものだ。
こういうリスクをたった二人で乗り切って、順調な人生を送ることが、社会の常識になっているわけだ。
無理ゲーである。
離婚後の単独親権で、片方の親が、子どもを育てるようになる。その子どもは経済的、心理的に幸福になれるだろうか。それは極めて疑わしい。ひとりの親で、前述のリスクと向き合って、幸福で豊かな人生を切り開くことができるのか。できる人はいるだろう。しかしほとんどの親は、独力ですべての問題を解決して、子どものために頑張れるとは思えない。
核家族でも無理ゲーなことは、片方の親だけは、不可能なゲームになる。
さまざまな理由で、両方の親が死んだとき、残された子どもは、どうなるのか。
日本の法制度では「難民」になるのではないか。
歴史上、国家を信じることが出来ない、という人たちはどうやって、サバイバルしてきたのだろうか。
中国の動乱を経験した人間たちは、国内外に家族のネットワークをつくって「華僑」になった。イデオロギーではなく、生きるために、一族郎党が力をあわせて助け合った。世界中に中華料理店があり、世界中に中国系の人たちが暮らしている。経済的に成功した人が、一族の中の貧しい若者に資金援助したり、仕事を世話をして生きていく。セーフティーネットになっている。
現代の日本社会で、家制度は時代遅れになっている。その復権は不可能だ。しかし、日本では戸籍制度という家制度が残っている。法務省は、戸籍制度(家制度)を変える気は無い。それが日本の国体だから。それは法務省の事情だ。
個人主義で生きていく。これは日本の法制度とは関係なく、市民の総意だろう。個人主義は止まらない。核家族もその欲望を実現するために選択された。閉鎖的で職業選択ができない田舎の共同体から、自由を求めて若者は都市に向かい、二度と田舎には戻らない。
個人主義は必要。
単独親権という家制度の残渣は不要。
核家族は無理ゲーである。
世界中が共同親権。日本も共同親権になるだろう。
では、共同親権が制度化されたあとに、私たちはどういう家族を目指すのだろうか。
ひとりの人間として出来ることは何だろう。
華僑のような何かだと思う。
それを一族郎党でつくっていく。
そこにあつまる雑多な人間たちは、個人主義であり、国家を疑っており、生きることに貪欲である。
これを短い言葉で説明すると「義侠の人」である。
義侠の人になることで、互いに助け合い、サバイバルしていく。それが、子どもを守るために、セーフティーネットになる。そこに可能性と希望を感じる。
先の、スペースで、そんなことを考えた。