2023年を振り返って大きな出来事は、
京都から横浜に移住したこと。
もうひとつは、論創社から『顔面バカ一代』が復刻出版されたこと。
このふたつ。
今日は、前者について書く。
移住のきっかけは、立岩真也先生の急逝だった。
2年前に、立岩真也先生のもとでユニークフェイスをテーマにした研究をしようと思い立って、川崎から京都に移住した。
京都では、思うように稼ぐことができず、大学院の入学が遅れるだろうと思った。しかし、京都に長く住んで働こう。どうせライフワークなのだから、慌てることはない、とのんびり構えていた。
そうしたら、先生が急逝した、という訃報が飛び込んできた。7月末だった。
それほど近い関係ではなかった。
先生が信州大学で勤務されていたときに、いつかユニークフェイスを本格的に研究したい、大学院に行きたい、と話したら、「今度、立命館に行くんだよ。ユニークフェイス研究する気があるなら歓迎する」と話されていた。
その出会いのあとに、私は東京を離れて、地方に移住して会社員になり、結婚して子どもができた。家族のために働く。ユニークフェイス活動も、書籍執筆も二の次。あっという間に10年の歳月が過ぎた。
その後、家族と離れて、神奈川県川崎市に単身住み始めて、「ユニークフェイス研究所」という看板で、ひとりで当事者向けの勉強会や交流会をしていた。
コロナ禍がはじまって、「とんでもない時代になった。50代になっても好きなことをして生きていきたいものだ」と友人とやりとりをしていた。
そのとき、大学院でユニークフェイスの研究をすれば良いのでは、と友人に声をかけられた。たわいもない雑談だった。
ああ、そういえば、昔、同じ事を考えていたな、と思い出した。
やってみるか。
金はないけど、健康なうちにやりたいことはやっておこう。
思い立ってすぐに、オンラインで先生に京都に移住します、と伝えた。
その1ヶ月後には、京都に行って、就職先を見つけた。
京都移住したのが2021年冬だった。
ある飲み会で、まだ入学しないのか、まだ資金が貯まっていないので、とお茶を濁した会話をした。
そして2023年に、先生は亡くなられた。
繰り返すが、近しい関係ではなかった。
だから訃報を聞いたとき確かに驚いたが、仕事が手に付かないような衝撃を受けたとか、号泣した、というようなことはない。
そういう自分でも、先生から受けた影響はたしかにあった。
はじめての著作『顔面漂流記』(かもがわ出版)を出したとき、
まっさきに大学で授業をして欲しい、と依頼があったのは、障害学を日本で立ち上げようとしていたN先生だった。
N先生から「私的所有論」という分厚い書籍を教えられた。
それを書いたのが立岩真也先生だった。
ユニークフェイス運動の黎明期と、日本における障害学という学問の黎明期がすこし重なっていたわけだ。
障害学に関する書籍を読んだり、都内で開催される研究会に参加するようになった。
先生の書籍をいくつか読んで、障害者のありかたのなかには外見の問題があり、それについては、まだ考えがまとまっていない、というような記述があった。
それに応じる形で、第2の単行本として『迷いの体』(三輪書店)を書き上げた。
立岩真也先生は「迷いの体」を、2回も書評で取り上げてくれた。
それは私にとってひそかな誇りだった。
障害学とのつきあいがはじまった。
『障害学研究』という研究雑誌で、エッセイの選考委員をさせていただく機会ももらった。
私はユニークフェイスという当事者運動の創設者であり、当事者として書籍を何冊か書いた。しかしながら、社会学などの専門的な学問研究をした人間ではない。
当事者の書籍を書いているフリーライターという雑草のような存在だ。
それでも、そのような存在を許容する、在野の雑草に期待をする。そんな気風が障害学にあり、その中心に立岩真也先生がいた。
2023年9月頃、このまま京都に住み続ける理由はあるのか?
と自問自答してみた。
数日考えた結果は、京都を出る。
収入を得る手段としてはじめたタクシードライバーが思いのほか、おもしろくなっていた。
神奈川県、東京都、京都府の3つのエリアで働き、もっとも働きやすい場所の横浜に移住を決めた。
それにしても、まさか、私よりも早く亡くなられてしまうなんて。
若すぎる。
いまも信じられない。