寒くなってきた。昨夜妻はいそいそと鍋料理をつくってくれた。九州の実家では、寒くなると3日に1度は鍋料理が夕食になる、という掟があったという。その掟は、浜松の家においても継承されることになっているのである。野菜をたっぷり放り込んだ鍋。ほこほこと口を動かしながら食べた。うまい。幸福だ。
ひとり暮らし歴四半世紀のオッサンだった過去と、すっきり決別したんだなぁ、と感慨深い。暖かい鍋だった。
昨夜も、ニュースネタをブログに書きこんで批評のまねごとをしようか、と思っていたけれど、鍋を食べていると、そんなことは後回し、ということになる。
とはいうものの、アメリカを震源地とする金融危機の荒波が、この浜松にやってくるのは時間の問題だろう。霞ヶ関と兜町は大混乱してるだろう。が、その混乱をマスコミは伝える気がない。金融の知識ゼロの多数の国民は、意味不明の事態に当惑しているのだろう。
銀行の資金調達能力が低下して、中小企業の資金繰りがさらに悪化するだろう。雇用がまた悪化する。失業者とその予備軍がふえる。しわ寄せは、若者たちに集中していく。
先日発生した大阪の個室ビデオ店での放火事件は、やりきれない。借金、離婚で行き詰まったのが犯行動機? この動機を抱えている人間はどこにでもいる。
さいろ社(私がかつて勤務していた出版社)の編集者、松本康治が、こう書いている。
http://www.sairosha.com/henkotu/nissi.htm
秋葉原の無差別殺傷事件と考え合わせると、もはや生きる希望を失った人たちの死に方が第二段階に入ったのではないかと感じさせられる。
つまり、自殺するにしても、もはや自分一人で死ねば済むようなことではおさまらなくなった。この世の中に何らかのかたちで一矢報いなければ死に切れないとの衝動だ。
希望のカケラが少しでも残っていれば、その捨て身の衝動は「死ぬ気になれば何でもできる」という生命エネルギーに転化する場合もあるだろう。
しかしそうでない場合、真っ暗闇の袋小路に落ち込んだ衝動は殺伐たる破壊衝動へと突き進む。突破口は「死」と「破壊」あるのみ。
私は、この「死」と「破壊」の爆心地は、東京、名古屋、大阪という大都市圏に集中すると予測している。そこには、絶望した底辺労働者が嫉妬する対象(恵まれた職、ありあまる金銭、めぐまれた待遇の大企業)が多く、いやでも目に入るからだ。
不況になり、仕事と希望を失った者たちが、都市を目指す。ほかに選択肢がないからだ。そして都市でも希望のない職場が待っている。希望があっても、絶望が深い環境のなかにあると、これが希望なのかどうかという判断能力が低下していく。
修羅の世界になった大都市から一歩はなれ、浜松から幸福な生活の実現のためにすたすた歩こう。
まだアイデアレベルにすぎないが、都市から浜松(東海地方)への移住をテーマにした動きをはじめようと思っている。