石井政之の作業場

作家、編集者、ユニークフェイス研究、「ユニークフェイス生活史」プロジェクト、ユニークフェイス・オンライン相談、横浜で月1飲み会

キリスト教と国家、障害者について

息子が通っている幼稚園の経営母体がキリスト教である。今日は、日曜礼拝に参加してきました。


帰宅して、キリスト教と障害者についての論考を読みました。


http://www.arsvi.com/1990/990700sh.htm


日本社会のなかでマイノリティであるキリスト教徒がどのようにして、マイノリティの支援をし、そして失敗したのか。その背景を知ることができてよかった。


 保護の対象として、慈しまれたい、という弱者と、慈愛の精神で生きることに生きがいを持ってしまったキリスト者との出会いが、ハンセン病の終生隔離政策を支えてしまった面もある。


 


 


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キリスト教と障害者

杉山博昭

アファーマティブやまぐち21編集委員会編 199907
アファーマティブやまぐち21』
発行:アファーマティブやまぐち21刊行委員会,pp.3-20

一、はじめに

障害者について論じるとき、しばしば「遅れた日本」と「進んだ欧米」を対比させて、「遅れた日本」を非難するという図式で語られる。こうした図式は、無理解な行政への圧力としては有効かもしれないが、いたずらに欧米をユートピア視することで、障害者のあり方について事実をふまえて考えていくことを阻害しかねない。
また、日本を弁護する意図は全くないが、必ずしも欧米が日本より進んでいるとは単純にはいえない。たとえば、ADA(アメリカ人障害者法)や自立生活運動によって、日本の障害者の間でアメリカに注目が集まっているように思える。しかし、ADA自体、画期的な側面は少なくないものの障害者を差別から解放することを目指す法律ではないし(1)、アメリカは決して障害者福祉の先進国ではなく、総じていえば、障害者にとって日本より暮らしにくい国といって過言ではない。
この図式を宗教にあてはめてしまうと、キリスト教は障害者に理解が深いが、日本の神道仏教は差別的である、という理解になる。藤田真一氏による「ちかごろは、あらゆる公共の場所やビルディングで、車いすの人びとのための改造などの配慮がされているが、昔から高い石段をもつ寺や神社はいったいどうしているだろう。(中略)福祉活動に熱心なキリスト教のばあい、障害者へのきめこまかな心づかいは仏教教団などの比ではない」との説明はその典型といえよう(2)。▲03▲
確かに、これだけ盛んにノーマライゼーションバリアフリーが語られているのに、神社仏閣を訪ねると、その影響はあまり感じられず、障害者排除の砦と化したままである。キリスト教は先駆的に障害者福祉に取り組んできているし、今日でもキリスト教の主要な教団やキリスト教関係の団体では、障害者にかかわるための組織をつくって、継続的に取り組んでいる。信仰をバネにして生きる障害者も数多く存在する。
日本でキリスト教の果たしてきた積極的側面は評価しなければならないであろうし、後れをとっている他の宗教には反省を求めるべきである。だが、キリスト教が差別の面でもっぱら好ましい役割を果たしてきたと認識されるとすれば、違うといわざるをえない。
それは戦後、キリスト教の内部でさえ、教会の差別体質が問われつづけたことからも明らかであろう。教会内での部落差別は繰り返されてきたし、在日韓国・朝鮮人についても同様である。在日韓国人キリスト者として人権獲得の闘争を続けた崔昌華は、はじめから在日韓国人の教会に属していたのではなく、もともとは日本基督改革派教会の牧師であったが、そこでさまざまな被差別体験を重ねるのである。最近でも、日本バプテスト連盟では牧師による在日韓国・朝鮮人への「同化」発言があり、これまでの教会としての取り組みの弱さが問われた。沖縄に対して、その痛みを知ることなく教会の都合で動いてきたのではないかと、日本基督教団や日本バプテスト連盟などでは、議論が続いている。南アフリカアパルトヘイトをめぐって、廃止を求める国際的な世論が高まり、日本政府すら一定の制裁を加えるなか、日本基督改革派教会は、一九七七年にアパルトヘイトを正当化する論拠を提供してきた南アの白人教会と友好関係を結んだうえ、教会内では南アの体制を支持する主張がたびたびなされた(3)。
障害者についても、状況は変わらない。教会と障害者の関係について八巻正治氏は「教会の在り方(とりわけ礼拝形式)をとらえたとき、そこには不都合な部分が数多く存在していることを強く感じるようになってきた。それを端的に表現するならば、多数派・強者的なまなざし、ということであった」と述べて、教会が強者の側に立つ傾向のあることを指摘している(4)。
キリスト教もまた、障害者に対して差別的に接してき▲04▲たことは否定できないところである。日本ではキリスト教は信徒数からすれば人口の一パーセントほどでごく小さな勢力にすぎないが、教育、医療、福祉、文化などの点では大きな役割を果たしており、それだけ障害者への影響も無視できないものがあり、ミニ宗教の内部の問題として、やり過ごすことはできない。キリスト教と障害者との関係を歴史的に問うことは日本社会と障害者との関係を明らかにすることにもつながってくる。
なお、こうして宗教を取り扱う場合、研究者のその宗教への態度が読者としては疑問に思うこととなろう。筆者はあくまで研究者として実証的に議論することを目指しており、護教的意図や、あるいは逆に攻撃する気持ちもない。筆者自身は長く日本基督改革派教会という保守的な教会に所属してきた。筆者は特定の神学が唯一正しいと考えていないので、教派の違い自体にこだわりは少ないが、長らく保守的な教会にいたので、その思考から離れてはいないだろう。保守的な影響下で、社会的取り組みを模索しているというのが現時点での立場であり、そういう立場と無関係に議論することも現実には不可能であろう。
なお、本稿では主として歴史を通して考察することから、差別的表現を含んだ史料について、歴史的重要性を踏まえてそのまま引用している。ハンセン病についても、「癩」あるいは「癩」を含んだ語について、この語を使用しなければ、ハンセン病患者を隔絶した歴史を説明できないために使用している。

二、キリスト教社会事業家の障害者観

キリスト教への高い評価は、キリスト者により、戦前から、今日でいう社会福祉実践が取り組まれてきたことによる。近代社会のあゆみのなかで生じるさまざまな社会問題に率先して対応した者の多くはキリスト者であり、スラムでのセツルメント活動や孤児救済など幅広い活動がなされた。そこでは障害者への救済も行われてくる。
当時は「共生」などという概念はなくて、一方的な保護・救済にとどまっていたのではあるが、差別される者の味方をするということ自体、自らも差別される側に追▲05▲い込まれることを意味しており、しかも施設運営は困難をきわめ、経済的にも厳しい状況におかれた。そうした献身的姿勢が、障害者の権利を保障する第一歩になったことは間違いない。自らの利益を顧みずに進んでいく姿は自ずと感動をよぶものであったので、賞賛の対象となることが多かった。
しかし、同時に誤りを犯し続けたこともまた事実であろう。障害者施設を運営し、障害者への差別を問い続けきたキリスト者の福井達雨氏はかつて「日本の障害児問題の中では、キリスト者キリスト教の教会が、大きな役割を果たしてきました。(中略)しかし、この人たちは、この大きな業績の裏に大きな過ちを犯してきました。その過ちについては日本の社会福祉の中には書かれていませんし皆さんもかんがえません」と指摘し、先覚者たちがことさらに障害者を悲惨に描き、同情心をかきたててきたことが、誤った障害者観や施設観につながっていると訴えている(5)。福井のことばは福井自身にも向けられるべき面もあるにせよ、それへの答えはこれまで少なかったといえよう。福井の提起にこたえるどころか、福井までが「先覚者」の一人として賞賛の対象となっていった(6)。
ここでは、不十分ではあるが、「先覚者」の誤った部分を見ていきたい。日本で初めての知的障害児施設といわれるのは一八九一年設立の滝乃川学園であり、創設者はキリスト者石井亮一である。石井は、濃尾大地震で孤児となった女児の救済の過程で知的障害児の存在を知り、知的障害児の施設を設立していく。石井については大泉溥氏がすでに指摘しているように(7)、「今日では雑草でも紙屑でも利用される世の中であるのに、人間許りが精神が薄弱であるが故に棄てられて利用されないと云ふ理由が何処にあるのかと私は思ふのであります。今日迄、精紳薄弱者に対する一般の考が余程冷淡であり且、間違つて居たと私は思ふのであります。紙屑でも利用されて居る世の中に於て、人間ばかりが屑であるが故に利用されないと云ふことは、実に情けないことであります」と知的障害者を「紙屑」や「屑」にたとえて、その活用を説いていた(8)。一般の者が知的障害者の価値を全く認めない状況にあっては、こんな説明でもして理解を得なければ仕方がないという面もあったので、石井が知的障害者を「屑」扱いしていたと決めつけることはできないが、大泉氏によれば、石井は当初はこうした発想はなく、知的▲06▲障害者の廃物利用へと後退してしまったというのである。つまり石井は、障害児と触れるなかで、はじめは人格的な関係を目指していたのが、障害児を突き放す見方に変化してしまったのである。
また石井は「亜米利加抔では二千五百人位の児童を収容する大きな収容所がありまして、そこには広大な農園がありまして、其処で百姓して、成るべく自分が働いて食ふだけのことをして世の中と隔離してあります。併しそれは監禁するのでなく愉快に有益に生活せしむるのであります。私共、今日一つの農園を持たないで非常に不便を感じて居りますので、将来は是非、広い場所に働ける者を収容したいと思ひます(9)」「そこで隔離の必要があるのである。隔離とは監禁のことではない。彼等のために別天地を設け、こゝに彼等を一団とし、愉快に幸福に且有益に生活せしめ、以て天寿を全うせしむるを以て旨とするのである。生存競争の激甚なる世路、困難多き社会に於て、鷲の爪先にかゝらんよりは、同一程度の知的状態にある同胞と共に自己の力相応の業務に従事して日月を過さんことの、如何に彼等のために幸福であるかは想像の難からぬのである(10)」とも述べて、知的障害者だけを集めて独立した社会を築くことを構想していた。
石井の構想は戦後、コロニーとして各地で実現していく。しかし今日では、山間部に巨大施設をつくって障害者の「理想郷」をつくろうとする方法は、障害者排除の思想であったと反省されている。石井に今日のノーマライゼーションと同じ思想を持てといっても無理な話であって、石井なりに差別からの解放を模索するなかで、こうした発想にたどり着いたものではあるだろう。しかし、戦後のコロニーはすでに石井によって「先駆的」に唱えられていたことも見ておかなければならない。
石井に続いて知的障害児の施設を作ったのが脇田良吉である。教師として知的障害児の教育に精力的にあたった脇田は一九〇九年に京都に白川学園を設立する。石井の影響もあって、聖公会の洗礼を受けて、クリスチャンとして行動していく。脇田は子どもの個々の事例について詳細な記録を残しているなど、教育の創造に相当の労力を用いており、その熱意は高く評価するべきであろう。
ところが、一方で脇田は国家主義を熱心に唱えていく。著書の中で、教育の目的として第一に理想的国家の建設を掲げている。脇田によれば、日本はまだ国家として未▲07▲成熟であるから、国家観念を養成し、国家にとって有益な人材を養成しなければならないというのである。脇田の知的障害児教育はこの国家重視の発想の延長にある。「低能児教育は人種改良に覚醒を与へるものである人種改良を促すものである大日本帝国を帝国ならしむるものである」という表現になるし、「中間児や変態児は十分教育さして差支のないものだけ結婚させる事にして不良分子は相当の監督をする事が国家永遠の策ではなからうか」と教育の結果、国家にとって有益となった者には一定の権利を認めるが、そうでない者は国家の管理下におくというのである。国家中心に考える必然的な発想である(11)。
脇田の主張は時間がたつごとに強まっていく。脇田は『異常児教育三十年』により、自らの歩みを中心としつつ、障害児教育の回顧と思索を行っている。そこで教育の目的として「日本民族の向上発展」を掲げ、「日本民族の将来」を論じ、日本民族が最古の文明人種であり、最優秀の人種であると認識し、さらに進化することを説いた(12)。「異常児教育」の目的は、障害児の幸福などにはなく、民族にとっての利益が考えられているにすぎない。 
石井も脇田も、後述する優生思想の点では、反対はしないものの、早急な断種の実施を主張するわけではなく、法律による対応には必ずしも積極的ではない。日々知的障害児と接するなかで、他の優生論者のような観念的で無責任な議論はできなかったし、知的障害の原因が遺伝と決めつけられないことも、経験的にわかっていたのだろう。しかし、国家や民族の発展を妨げる障害児を減少させるべきだという問題意識は明確であり、最終的な目的は優生思想と変わるところはなく、優生思想が医学的手段や法制度で目的を実現しようとしたのに対し、教育や福祉的施策で実現しようとしたという違いがあるにすぎない。
戦前から戦後にかけて、障害児への治療教育の概念を根づかせた人物が三田谷啓である。キリスト教信仰が社会事業に近づいたきっかけであった。三田谷は戦時下においてナチスへの憧憬を鮮明にしていく。自らが主宰する雑誌において繰り返しナチス支持を説いた。「ナチス政権となつて僅か四年間に母性教育の徹底をはかる努力に対しては頭が下がります。即ちドイツは母性の相談相手となる婦人を非常に沢山養成して居ます(13)」「ヒツトラ、ユーゲントの人々は東の方から西へ、西の方から東へと、▲08▲故郷から遠く離れた地方で勤行訓練をやつて居ます。これにはいろいろの理由がありませうが、その一つ国の歴史を青年達にしらせることです。祖国愛はまず祖国の歴史をしる必要があるからです。ヒツトラは、独逸を欧州の大豪傑にしようと起つて居る豪傑です(14)」「独逸は、児童を強くするために、非常な努力を払つて居ます。ヒツトラ・ユーゲントの組織などもその一つであります(15)」「結婚を容易ならしめる方法として、奨励金を政府から貸出して居る例は、独逸です(16)」と述べて、ナチスを積極的に支持し、日本も学ぶように説き続けた。ナチス支持の姿勢は当然に優生思想へとつながっていく。
なぜ三田谷はナチスにあこがれたのであろうか。もちろんこれらの発言をした時点では、まさかナチスがユダヤ人虐殺や障害者の「安楽死」をしていくとは想像もできなかったのであり、社会政策の「成功」で注目を集めるナチスから率直に学んでいこうという姿勢ではあったのだろう。これらの発言をした一九三八年頃、日本全体が親ドイツブームに覆われたことが影響したのかもしれない。しかし、治療教育の思想は、結局のところ健康や完全な肉体を目指していくものであり、ナチスの体制がその目的と合致する理想的なものと映った。それが障害者にとって、幸福をもたらさないことに気づくことはなかった。
こういう三田谷は、当然に戦争を支持した。それも、当時の日本人の一般的なレベルをこえて、さまざまな著作を通じて戦争協力を煽り立てた。戦時体制の中で障害者が厳しい立場におかれたのはいうまでもない。また、戦時下に三田谷は知的障害児の保護策について「人口資源拡充の目的の下に、国民能率増加の趣旨から極めて重要の意義がある」と述べて、知的障害者の保護が、本人の保護でなく、戦争遂行の体制づくりにあることを説いている(17)。これが三田谷の治療教育論の結論となってしまった。
以上の三人は、三田谷が戦後しばらく活躍したほかは、主として戦前に活躍した人物である。戦後になると、社会福祉の構造が大きく変化して、キリスト者による役割は低下したけれども、彼らは戦後も継承の対象として、尊敬されてきており、その影響は戦前で終わるものではなかった。 ▲09▲

三,優生思想とキリスト教

障害者差別の最も極端な形態は、障害者の存在自体を拒否する優生思想である。一九九七年秋に、福祉先進国のはずのスウェーデンでも障害者への強制断種が行われていたとして「衝撃」として報道されたが、断種法は欧米で広く実施されたし、スウェーデンの断種についても従来から一部ではすでに知られていたことである(18)。 欧米でこういうものが流行するのは、当時の欧米のキリスト教が、優生思想について少なくとも否定的ではなかったことを示している。
キリスト教は本来なら、優生思想と相容れない面をもつはずであった。すべての人間は神によって創造された存在であり、人間が立ち入ることのできない尊厳がある。重い障害をもっていてもそれは神のなせる業であって、人間が勝手にマイナスの評価を与えることは神への冒涜にほかならない。
ところが、逆に優生思想とキリスト教とを車の両輪のように把握する理解さえ生じてくる。一九三三年に佐藤定吉による『優生学と宗教』と題する著書が刊行された。「宗教」とあるけれども、内容的にはキリスト教のことである。佐藤は、「神の前に永遠に輝く人類生活を実現すべき愛と霊智をもて神の聖旨成就を目的とすべき人物が多々輩出する優生運動こそ、最大の価値あるものと言はねばならぬ」として、優生思想に全面的な賛意を示した(19)。
優生学は地球上に優良なる人の材料を提供しうるが、宗教はその良材を用ひて、神の住む給ふ宮となす(20)」「優生学は基礎石と良材を提供せんとして雑草雑木に蔽はれし山林を開拓せんとする造林士であることがよく分るであろう。それらの基礎と材料を用ひて天に通ずる大殿堂を建築するものは正に之れ真実の宗教であることを悟るでないか(21)」と述べて、キリスト教が存在するためには優生思想が前提になると理解し、「信仰による精神的能力が優生学上、著大なる因子となる事は疑ひ得ない。こゝに優生学上、宗教生活を認めざるをえない(22)」「結局、優生学も登りつめれば、他の学術と同様また人生万般の文化と同様に「神」の問題に帰着する(23)」として、優生学にとっても、キリスト教が有益な存在だとした。キリスト教と優生思想は相対するものではなく、むしろ優生思想▲10▲あってのキリスト教として位置づけられたのである。
こういう理解は、佐藤ひとりの独創ではなく、キリスト者たちに広く浸透していたと思われる。社会事業は、今日からみればさまざまな限界や差別的な面を含んでいるにしても、もっとも虐げられている者に共感し、権利を擁護しようとするもののはずである。その観点からすれば、せめて優生思想に積極的に推進しない程度の感覚を期待したいところだが、キリスト教社会事業家たちも優生思想に賛意を示していく。
安部磯雄賀川豊彦についてはすでに藤野豊氏による『日本ファシズムと優生思想』で論じられているので、多くを述べないが(24)、社会主義者であり、キリスト者でもあった安部は、産児制限論者でもあった。産児制限を説く中で、優生思想についても語っている。産児制限の主張をまとめた『産児制限論』では「優種学より見たる産児制限」なる章を設けて、人類の進化が自然力によると考えるのは誤りであり、優秀な性質を遺伝していくためには産児制限をするべきであると主張した。また、「産児制限の是認される場合」として「不具児を生む場合」や「遺伝病」を挙げていた(25)。賀川豊彦も、障害を貫く主張が優生思想であった。吉田光孝氏が明らかにしているように(26)、賀川の著作には随所に優生思想の主張がみられる。賀川といえば、これまで著書の中の部落差別表現が厳しく批判されてきた。それに対し、賀川を礼賛する人たちは、時代の限界であるとか、差別表現は本意ではなく、スラムに入って活動した姿勢にこそ真意がある等の弁護をしてきた。しかし、賀川の優生思想は長期間にわたって、しかも戦後になってますます強固に論じられており、もはや弁解の余地は感じられない。
他のキリスト教社会事業家について、筆者はすでに論じたことがあるので(27)、簡単にその要旨に触れるだけにしておきたいが、多くのキリスト教社会事業家が、優生思想への賛意を明らかにしていく。キリスト教のみならず社会事業界全体のリーダー的存在であった生江孝之は、一貫して当然の前提として優生思想を説きつづけた。
セツルメントに大勢のキリスト者が飛び込んでいくが、そもそもセツルメントは、貧困などの生活問題について社会環境の影響を重視し、社会環境を改善することで問題を根本的に解決しようとするものであり、また解決を確信するものである。問題の根本をを個人的要因、しか▲11▲も遺伝という解決不能なところに求める優生思想とはもっとも遠いところに位置するはずであるが、セツルメントの人たちも、優生思想支持の立場であった。たとえば大阪でセツルメントに従事した冨田象吉は、はじめのうちは遺伝的要因と社会環境の両方に着目していたが、やがて断種法の即時実施を主張するようになる。
キリスト教か統一した意思として優生思想の推進を決めたわけではない。優生思想につながる発言を控えている社会事業家も存在する。しかし、全体としては優生思想を推進し、国民優生法や戦後の優生保護法へとつながる基盤をつくってしまっている。戦前は、社会事業界に占めるキリスト教社会事業の比重は大きなものがあり、思想や主張として存在しただけとしてすますことはできない。
四、ハンセン病患者への隔離政策とキリスト教
一九九六年のらい予防法廃止の前後から、ハンセン病患者への強制隔離政策への関心が高まり、長期間隔離政策がとられてきたことへの批判が強まっている。
ハンセン病感染症ではあるけれども感染力は弱く、戦前の医学水準に照らしても、厳格な隔離は無用であった。にもかかわらず、民族浄化を掲げて、隔離が強要され、しかも隔離先の療養所の生活水準は劣悪であった。戦後になって、特効薬が用いられて治癒するようになっても、隔離の原則は変わらなかった。
ハンセン病患者への対応は、近代初期にはキリスト教関係者が救済に着手した。その後一九〇七年の「癩予防ニ関スル件」(後の癩予防法、戦後はらい予防法)により、国も対応をはじめた。当初は主に浮浪している患者の収容が中心であつたが、一九三〇年代には全患者をことごとく強制的に隔離する方向へと動いていく。その中心人物は山口県出身の光田健輔である。山口県では最近まで、光田健輔を偉人ととらえる風潮が強く(28)、光田に批判が集まっていることへの認識も乏しいようだが(29)、学界レベルでは一九八〇年代には光田は批判的検討の対象となっている。
光田は晩年にカトリックの洗礼を受けたようだが(30)、現役中はキリスト者ではない。だが、光田をとりまく医師▲12▲や看護婦にはしばしばキリスト者がいた。林文雄・富美子夫妻はその典型であるし(31)、『小島の春』で有名な小川正子も、キリスト者と考えてよいようである(32)。ほかにもキリスト者が多いことは森幹郎氏が広く「救癩」関係者を紹介しているなかからも明らかである(33)。
彼らは主観的には良心と勇気をもって、大きな決断のもとで療養所に飛び込んでいく。しかし、自分が正義の行動をしていることを疑わなかったので、患者が隔離への疑問を呈しても、耳を貸すことはなく、ひたすら隔離を支えることになる(34)。
民間の立場で、隔離推進の活動をしたのが日本MTLという民間の「救癩」団体である。日本MTLはキリスト教団体ではないが、中心となっている小林正金らはキリスト者である。日本MTLと隔離政策との強固な関連については藤野豊氏の研究にある通りで(35)、「急速に療養所を拡張せよ」などのスローガンをかかげて、隔離のいっそうの推進を説いた。
療養所にはいくつかの宗教団体が伝道を行うが、熱心な宗教のひとつがキリスト教であり、現在もどこの療養所でも、いくつかの教会が活動を続けている。療養所で宗教活動が奨励されたのは、療養所の治安維持のためであった。療養所に隔離された患者は人生に絶望して、精神的に不安定となり、ときとして療養所の秩序を乱すこともあった。患者の立場を受け入れて、おとなしくしてもらうために、宗教の役割が期待されたのである。このことは療養所の医師内田守が「癩院の宗教は如何にも御都合主義にできてゐて、患者が真実に信仰に覚めてゐるか何うかと云ふ事は、中々問題の様である」と冷めた見方をしていることが示している(36)。
患者にとって、宗教の存在が心の安らぎになったのは確かであるし、キリスト教の伝道者たちがハンセン病患者を嫌悪せずに接していった面もある。戦後は信仰をもった患者のなかから患者運動に参加する者もあらわれており、療養所でのキリスト教伝道が一概に悪いものであったというわけではない。しかし、たとえば長く長島愛生園に出入りした河野進牧師は一九九〇年に発行された詩集にて三編の光田礼賛作品を掲載している。「偉大」と題した詩では「もう二度とお目にかかる機会がない偉大なお方 光田健輔」などと書いている(37)。一九三六年の長島事件以来、患者からは光田に代表される隔離主義へ▲13▲の疑問があがっていた。その声にいささかでも耳を傾けてきたのなら、これほどまでの光田への礼賛にはならないはずである。患者の側に立つのではなく、療養所を人間愛の場と考え、その療養所を支えようという意識のもとで宗教活動がなされたと評価せざるをえない。
直接「救癩」とはかかわりのないキリスト教社会事業家たちも、議論としては隔離政策を支持し、後押しする役割を果たしていく。筆者はすでに賀川豊彦(38)と山室軍平(39)については個別に指摘しているが、留岡幸助も、隔離政策の推進への期待を表明しているなど(40)、社会事業の側から隔離政策を支えていくのである。 
戦後になって、療養所内外の環境に変化が出てきて、患者は自ら組織をつくり、人権獲得の闘争に乗り出していく。そうしたなか、キリスト者のなかにも、患者の立場に関心を示すものも何人かはあらわれてきた。患者運動に協力して、らい予防法改正反対闘争に代議士として協力した長谷川保(41)、療養所の職員でありながら療養所のもつ問題点を指摘して、ついには療養所を去っていく森幹郎(42)、各地の療養所を訪問して鋭い考察を著した牧師の渡辺信夫(43)らが、その例である。だが、まだ少数派でしかなかった。多数はなお、戦前さながらの「救癩」思想のままであった。
その典型が神谷美恵子である。神谷はキリスト教の家庭に育ち、キリスト者といっていい人物であるが、神谷は若い頃からハンセン病に関心をもち、光田を訪問して、療養所勤務を希望するが果たせなかった。しかし戦後、非常勤の精神科の医師として長島愛生園に通うようになる。近年、なぜか神谷に社会的関心が集まり、伝記が相次いで出版されたり、テレビで取り上げられたりしている。そこではハンセン病患者とのかかわりが過度に強調されて、あたかもハンセン病救済に生涯を捧げたかのようなイメージが振りまかれているのが気になるところである(44)。神谷はあくまで晩年の一時期、非常勤でときどき療養所に通ったにすぎない事実をまず認識すべきであろう。
そういう誤った認識は、今なお「救癩の聖女」を待望する社会の側の問題であって、神谷の責任ではないが、神谷は戦後なお光田の礼賛を続けて、隔離の実態に目を向けようとはしなかった。ハンセン病に関心をもつからには、患者による悲痛な訴えを知る機会は大いにあった▲14▲にもかかわらず、それへの配慮は神谷の著作からはなく、あるのは「歴史的制約の中であれだけの仕事をされ、あれだけのすぐれた弟子たちを育てた光田先生という巨大な存在におどろく。研究と診療と行政と、あらゆる面に超人的な努力を傾けた先生は、知恵と慈悲とを一身に結晶させたような人物であった」という光田への賛辞である(46)。
神谷が関心を集める理由のひとつは、神谷が皇太子妃(現皇后)と交流があったためである(47)。戦前、皇室によるさまざまな「ご仁慈」が患者を療養所にくくりつける役割を果たした。今また、神谷を介して、皇室とハンセン病とが結びつけられているのではないだろうか。
キリスト者たちは、時代の限界や世の風潮のなかで誤ったに過ぎないのだろうか。そういう面も確かにある。彼らは、患者を隔離して差別を貫徹しよう、などという気持ちで活動したわけではない。けれども、十分な情報や知識のあるキリスト者までが隔離を疑わずに光田の賞賛を続けるのを見ると、誤りのすべてを時代や社会のせいにしてよいのか、疑問に感じる。
キリスト教社会館館長のほか、福祉業界や学会の要職、政府の審議会委員などをつとめてきた阿部志郎氏は一九八六年の段階で「ハンセン病、ライ医学の父と呼ばれる光田健輔は、長島愛生園で、家族から隔離されて島に来る患者を迎えるときに、波止場でいつも涙を流して迎えたと聞きました。それでいながら、ハンセン病の医学をつくっていくのです」「りっぱな人だと思いますね。光田健輔は。『愛なくしては科学は不毛である』というのはアナトール・フランスのことばですが愛と科学の統合を、これからの理論形成に期待したいし、それでなければ実践を本当に下から盛り立てていくことはできないのではないでしょうか」と光田への高い評価を与えている(48)。
学識の深い阿部氏は患者運動の歩みを知っていたであろうし、一九七七年には患者運動の歴史をまとめた『全患協運動史』が出版されて、そこでは患者の人間回復への叫びが記されるとともに、光田への批判がまとめられている(49)。『全患協運動史』はかなり広く紹介された著名な文献であり、社会福祉研究者がこの本の存在を知らなかったとは考えられない。阿部氏の議論のなかには、『全患協運動史』から何かを学んでいるようには見えない。
そして、今日、らい予防法廃止のもとで隔離への反省▲15▲の気運が高まり、厚生省さえ不十分ながら隔離を続けたことへの反省を表明するなか、キリスト教関係者の反省の動きは遅れがちであることを荒井英子氏が指摘している(50)。それでもようやく、日本キリスト者医科連盟・日本福音同盟日本基督教団常議員会などによる反省や謝罪の動きがあるが、逆に「救癩」の発想そのままだと批判される映画が、主としてキリスト教関係者の支援のなかでつくられたといった動きもある(51)。隔離への加担についての教会全体の認識はなお不足しているといわざるをえない。
光田ひとりが誤った医学知識のもとで隔離を訴えても、物笑いになるだけであり、拍手をして支える者たちがいてはじめて隔離が実現していくのである。近年の隔離批判は、もっぱら光田を取り上げて批判を加えるか、あるいは厚生省の責任を追及することに終始している感があるが、拍手して隔離を慈愛にすりかえて世論作りをした者たちの言動についても、検証をすすめるべきであろう。
また、聖書に「癩」を罪の象徴とする記述があることから、長い間キリスト教ではハンセン病を罪の結果としてとらえる解釈をしてきた。大人への礼拝説教ばかりか、子ども向けの教会学校でもそうした話がなされた。まず、「癩」について、いかに恐ろしくて治らない病気かを強調し、人間は「癩」のように汚れているとしたうえで、罪からの救いを説くのである。
ハンセン病は治癒するし、聖書に出てくる「癩」がハンセン病とは異なる疾病であることもすでに明らかになっている。けれども、医学常識も聖書理解も、教会内では通用しなかったのである。療養所内の教会の抗議により、そういう教え方をやめるように通達を出したキリスト教団体もある(52)。抗議を前向きに受け止める良識は評価すべきであるにしても、一片の通達で長年根深く続いてきた教えが根絶されたとは考えにくい。

五、おわりに

キリスト教と障害者とのかかわりを批判的にたどってみたが、本質として問わなければならないのは、第一にキリスト者たちが障害者を愛するべき存在として一面的にとらえたことである。キリスト教は「隣人愛」を教義▲16▲のひとつとして高く掲げ、「隣人愛」を自分自身の課題として真剣に受け止めるキリスト者も少なくなかった。それゆえ、多数の社会福祉活動にもつながるのだが、その活動は神に選ばれたキリスト者として高い場所から手を差し伸べる形になりがちであった。それゆえ、ハンセン病患者のように、自立して自己主張をはじめたとき、共感することができなかったのである。善行をしているという意識のなかで、自分たちの歩みを別の視点から顧みることができなかった。
第二に、国家が、社会不安を「愛」をもって解消してくれるキリスト教に期待をするなかで、それに積極的にこたえる姿勢をもったことである。外来の宗教として排斥されてきたキリスト教は、国家や社会に有益な宗教であることを強調することで生き延びようとしてきた。障害者との関係では、障害者の生活問題を緩和する役割を果たすことで、キリスト教の存在意義を示した。社会が障害者を排除する社会である限り、障害者の排除に妥協することでもあつた。
第三に、戦前のハンセン病療養所でキリスト教が歓迎されたことに典型的にあらわれているように、キリスト教は障害者が障害を受容するうえでは有効に働くけれども、受容するあまり、障害者を差別する社会への怒りへとつながらず、「感謝して生きる障害者」を作り出していることである。
現在でも同様で、たとえば重度の障害者として知られる星野富弘氏やさまざまな病歴をもつ三浦綾子氏は、障害を信仰によって受容することのできた著名な人物である。星野氏の著書を読むと、社会を見つめる目をもってはいるし、三浦氏は革新政党を支持する行動をするなど、作風とは違ってかなり政治的な動きをする人物なのだが、星野氏も三浦氏も、こと障害や病のこととなると、それを神の業として受け止めて感謝の生活をすることの喜びの強調に流れていく。障害をありのままに受け止めるだけでなく、障害者をとりまく社会の有様までも、受け止めている。読者は自身の差別を問われることがないから、安心して星野氏や三浦氏の著作を手にするのである。
ほかにも、筆者が見逃している問うべき点はまだほかにもあるだろう。キリスト教が歴史の検証と、障害者の声を受け止めることで、障害者へのかかわり方について考え直していくことは、キリスト教の改革にとどまらず、▲17▲日本の人権の状況とも深く関係する課題でもあるだろう。


(1)定藤丈弘『障害者と社会参加 機会平等の現実-アメリカと日本』解放出版社、一九九四年。
(2)藤田真一『盲と目あき社会』朝日新聞社、一九八二年、一九〇頁。
(3)拙稿「日本の教会とアパルトヘイト」『福音と世界』第四七巻第一一号、一九九二年一〇月。
(4)八巻正治「インクルージョン理念に基づく教会実践活動について」『基督教社会福祉学研究』第三〇号、一九区八年六月。
(5)福井達雨『嫌われ、恐がられ、いやがられて』明治図書、一九七六年、九一頁~九二頁。
(6)村山幸輝『キリスト者と福祉の心』新教出版社、一九九五年。
(7)大泉溥『障害者の生活と教育』民衆社、一九八一年、二三二頁。
(8)石井亮一全集刊行会『増補石井亮一全集』第一巻、大空社、一九九二年、二九五頁~二九六頁。
(9)前掲書、二九七頁~二九八頁。
(10)『増補石井亮一全集』第二巻、一七二頁。
(11)脇田良吉『低能児教育の実際的研究』巌松堂書店、一九一二年、六七二頁~六七三頁。
(12)脇田良吉『異常児教育三十年』日乃丸会、一九三二年。
(13)三田谷啓「非常時局と女性」『母と子』第一九巻第九号、一九三八年九月、四頁。
(14)三田谷啓「空前の非常時局と日本女性の認識」『母と子』第一九巻第一一号、一九三八年一一月、六頁~七頁。
(15)三田谷啓「建設へ!建設へ!長期建設へ!」『母と子』第一九巻一二号、一九三八年一二月、六頁。
(16)三田谷啓「人口政策は女性の直接問題」『母と子』第二〇巻第二号、一九三九年二月、三頁。
(17)三田谷啓「青年期に在る精神薄弱者の保護策」『社会事業研究』第二八巻第五号、一九四〇年五月、四六頁。
(18)米本昌平スウェーデン断種法とナチス神話の成立」『中央公論』一九九七年一二月号。
(19)佐藤定吉『優生学と宗教』雄山閣、一九三三年。二四頁。▲18▲
(20)前掲書、五三頁。
(21)前掲書、五五頁。
(22)前掲書、一四九頁。
(23)前掲書、二一二頁。
(24)藤野豊『日本ファシズムと優生思想』かもがわ出版、一九九八年。
(25)安部磯雄産児制限論』実業乃日本社、一九二二年、六六頁~一〇〇頁。
(26)吉田光孝「討議資料の欺瞞性を撃つ 賀川豊彦は差別者か」『資料集『賀川豊彦全集』と部落差別』キリスト新聞社、一九九一年、二一二頁~二三三頁。
(27)拙稿「キリスト教社会事業家と優生思想」『基督教社会福祉学研究』第三〇号、一九九八年六月。
(28)『夢へのその一歩 光田健輔物語』が一九九四年に防府青年会議所より出版されているのが、その例である。
(29)拙稿「人物を用いた福祉教育のあり方」『日本福祉教育・ボランティア学習学会第2回大会』一九九六年一一月、九四頁~九五頁。
(30)内田守『光田健輔』吉川弘文館、一九七一年、二二九頁。
(31)おかのゆきお『林文雄の生涯』新教出版社、一九七四年。林富美子『野に咲くベロニカ』小峯書店、一九八一年。
(32)荒井英子『ハンセン病キリスト教岩波書店一九九六年、七九頁~一三三頁。
(33)森幹郎『足跡は消えても-人物日本救ライ小史』日本生命済生会、一九六三年。
(34)たとえば、林は「長島の為に弁ず」『社会事業』第二〇巻第七号、一九三六年一〇月にて、一九三六年に長島愛生園の患者が劣悪な待遇に抗議した長島事件について、療養所の立場を代弁している。
(35)藤野豊『日本ファシズムと医療』岩波書店、一九九三年。
(36)内田守人(内田のぺーネーム)「癩院の宗教問題管見」『社会事業研究』第二九巻第二号、一九四一年二月、六九頁。
(37)河野進『今あなたは微笑んでいますか』聖恵授産所、一九九〇年。
(38)拙稿「賀川豊彦と救癩」『賀川豊彦学会論叢』第七号、一九九二年一月。▲19▲
(39)拙稿「山室軍平と救癩」『社会福祉学』第三七-二号、一九九六年一一月。
(40)留岡幸助キリスト教に據る癩患者救済事業」『留岡幸助古稀記念集』留岡幸助古稀記念事務所、一九三三年、一八一頁~一八八頁。ただし、同論文の初出は一九三一年。
(41)長谷川保『神よ、私の杯は溢れます』ミネルヴァ書房、一九八三年。
(42)拙稿「ハンセン病患者隔離への先駆的批判」(未発表)。
(43)渡辺信夫『ライ園留学記』教文館、一九六八年。
(44)たとえば、一九九六年五月二六日に放映された日本テレビ系の「知ってるつもり」の番組では神谷を取り上げ、番組の宣伝文句として「ハンセン病に捧げた命」とうたい、一九九七年九月のテレビ朝日系「驚きももの木20世紀」では神谷を特集し、「強制隔離の孤島でハンセン病患者を支え続けた精神科女医の壮絶な記録」とうたっている。
(45)神谷への的確な指摘として、武田徹『「隔離」という病い』講談社、一九九七年の第五章「生きがい論の陥穽」。
(46)神谷美恵子『新版人間を見つめて』朝日新聞社、一九七四年、一九六頁。
(47)宮原安春神谷美恵子 聖なる声』講談社、一九九七年の帯では「美智子さまの心の主治医の魂にひびく清らかな生き方」とうたっている。
(48)阿部志郎他「シンポジウム=社会福祉思想の日本的特質」吉田久一編著『社会福祉の日本的特質』川島書店、一九八六年。
(49)全国ハンセン氏病患者協議会編『全患協運動史』一光社、一九七七年。
(50)荒井、前掲書一八七頁~一九一頁。
(51)藤野豊「ハンセン病をめぐる社会の意識は変わったか」『部落解放』第四三六号、一九九八年四月。
(52)『クリスチャン新聞』一九九二年一〇月四日。▲20▲





高久史麿全文掲載

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