レンタルDVDで鑑賞。なんとなくかり出したところ、さすが名作、すばらしいできばえでした。
見ながら思ったことんですが、主人公の「あきらめた日常」というのを嫌悪して私は生きてきました。こういう顔で生まれると、絶望したり、あきらめる理由にはことかかないわけですが、そういう「あきらめる人生」ではなくて、生き甲斐のある人生を送りたい。ということで、いろいろなことをやってきました。
主人公は公園をつくるために余生を使い切って、微笑みながら死んでいく。あしたのジョーのラストシーンの、「真っ白な灰」と似た結末にぐっと来ましたね。
人にはそれぞれ、余生についての意識が違います。その意識を発動させるために、主人公には胃癌という死の病があった。私の場合は、顔面の血管腫があった、ということでしょうか。私は幼年期に血管腫のある自分を意識しましたので、余生にたいする意識の発動が早かった。というか先天性の疾患のある人は、多かれ少なかれ、危機意識をもっていますから私が特別だということではありません。
主人公は公園をつくった。私は何をつくったのか。つい最近までは、書籍であり、ユニークフェイス運動だったりしました。いまは家庭であり、家族の将来をつくるための仕事に取り組む、という余生(限られた時間)を過ごしている。優先事項は、年代事に変化していく。主人公は、息子のために、安定した収入のとれる役所で30年間勤務するわけですが、その役所生活のなかで、生き甲斐を喪失していく。しかし、その役所のなかに「子どもたちのための公園づくり」という生き甲斐を感じる仕事はある、ということ。絶望のなかにも、チャンスはあって、生き甲斐はみつかる。ということが映画で表現されていて、ぐっと来ました。
葬式のシーンは実に興味深かった。主人公の生き様について、生きている人間は勝手に解釈していく。解釈される当事者である主人公はいない。多面的な解釈があり、勝手な解釈がある。誤解と歪曲がある。それでも、主人公の余生の完全燃焼は理解されていく。それは、公園という具体的なものをつくり、つくるための奔走があり、それを目撃し伴走した第三者が多数いたからです。これが、たった一人でつくる個人的な営みのなかでできあがるモノであったら、主人公は誤解されたまま死んでいったと思う。
モノをつくる、ということは多くの人を巻き込んでいく営みなのだ。したがって、生きる、意味が映像化されていくし、周囲の人達に刻印されていく。
そんなことを考えさせてくれる実に面白い映画でした。
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