石井政之の作業場

作家、編集者、ユニークフェイス研究、「ユニークフェイス生活史」プロジェクト、ユニークフェイス・オンライン相談、横浜で月1飲み会

侮辱表現をめぐる対話が必要---ユニークフェイスと表現の自由についてメモ


あるサイトで、海外のユニークフェイス当事者について侮辱的な表現があった。その後、そのサイトの担当者は、日本の当事者からの異議申し立てをうけて、前向きな意見交換をして修正。そんな小さな事件が身近にあった。(ここではそのサイトのページのリンクはつけない)。

やり取りの一部を知る機会があったので、感想をメモ書きで残しておきます。
ユニークフェイス当事者について、メディアでひとつの侮辱表現や差別表現をみつけたとき、その表現をしている人たちに、何かを伝えることは大事。
その何かとは、抗議、異議申し立て、違和感、嫌だという感情、なんでもいい。
現代は、それがSNSで表現できる。
表現の主体は、匿名でも、実名でもかまわない。

なぜ,そんな面倒臭いことを勧めるのか。

まず第一に自分自身のため。違和感を書くとスッキリする。自分が侮辱されているわけでないが、なんでこんなに不快なのだろう、と気持ちを整理することができる。

第二に、次世代のユニークフェイス当事者のため。大人でもイラッとする訳だから、十代の若者だったらもっとイライラしている、と私は想像する。大人がしっかり抗議をすることを、若い世代に見せることで、嫌なモノは嫌と言って良い、という文化を継承できる。

第三に、メディアのため。そんな表現は時代遅れですよ、と伝えることで、表現する人たちにユニークフェイス問題について知ってもらう。表現者が進化するために、読者からの意見は必要不可欠。

ユニークフェイス当事者に対する差別や偏見に凝り固まって、侮辱表現をしているメディアの人はほとんどいない。
これくらい許容範囲だろう、という軽い思い込みで、侮辱表現がおきていることが多い。そして、当事者から反論される可能性について考えていない人も多い。

ユニークフェイス当事者に対する侮辱表現がうまれてしまう背景にある、メディアの人の誤解とか、理解不足を、補足するような議論ができると良い。
「当事者の私が不快だから、この侮辱表現はダメ」というのは説得力がない。

容姿差別や侮辱をふくむ表現は、人権問題である。侮辱表現は、ないほうが良い。しかし、このような表現がある、という現実は存在している。絶対にだめだ、と言い切ることはできないのではないか。
表現の自由と、人権問題の両方について考えながら、表現して欲しい、という当事者からのメッセージをメディアに伝えるのが大事だと思う。

「この表現は当事者を侮辱しているからダメ」という一方的なメッセージだと、メディアの人たちのプロ意識を軽視することになる。

返す刀で、当事者は表現の自由を制限できるほどの立場なのか、という反論がでてくるだろう。それは、ただしい反論かもしれない。

対話を通じて互いのことを理解することが大切だ。

そのためには、当事者も教養を磨くことが求められている、と思う。